2010年

  • 2010/02/07(日) 09:34:31

初めてのブログとなりますが。

みなさん、超おひさしぶりだいこん。

御存知の通り、昨年の秋からなーんも書いてません。
(書いてな〜い♪書いてな〜い…♪

ほんと…。ツタ(草)巻くぐらい見事な放置プレイでした。で、たまーにアクセス解析なんか見たりして、直行便の方々の無駄な指運動を暖かく見守っていました。


























遠い宇宙(そら)で。

はい。あれは去年の秋ごろのこと。頭上がピカッと光ったかな〜なんて空を見上げた瞬間、直立不動のまま綺麗に持ってかれちゃいました。
(さよなら地球。クルクルクル〜

…で、初めは矢追純一の近況やなんや。地球ローカル話に盛りあがってたんですが、頭の触覚の話で怒りに触れ、その後は週5ペースでキャトられ状態。
(あ〜まいった、まいった…。そこでキレるか。



























…な〜んて。

感じの初夢でも見たよって…、元旦に書こうかなって思ってたんです。ほんと。。。

が、都合良くそんな夢を見る訳もない。で、なかなかココまでサボると逆にどこまでサボるんかの記録を出したいような気もしないこともなく。
(おひさ10年ぶりれんこんみたいな。


が、最近の高知。龍馬伝なんかでかなり盛り上ってますから。このブログにも高知系検索の沢山の方達がネット観光で訪れています。もちろん、
























迷子状態で…。
(ぼんぼやーじゅ♪

で、最終更新の日時があんまりと言えば、いや。言わなくてもあんまりなんで更新することに決定。
(なんか高知な話でも書こうかなと。

で。高知の偉人と言えば、龍馬さん、鹿さんじゃないです。龍と馬で龍馬さん。検索ワードも【龍馬・竜馬・幕末・矢追…宇宙】かなり皆さん興味を持ってるようですね。



























(異人に…。

で、その龍馬伝。高知県民の一部で不評が、

























雅治さん…。

はい。なぜ?

なぜ内野聖陽じゃないの??の、まさはるさん。

仁からの流れ〜の、まさはるさん。

あんな小奇麗な龍馬は龍馬じゃない…と、みんなゆうちょります。。特に僕が。
(あれはきっと鹿さんです。


はい。高知県民の龍馬像を簡単にゆーと。

無骨で、無垢で、頭チリチリで。無邪気で、人懐っこくて、得意はホームステイで。背中にゴワゴワしたタテガミみたいな毛が生えてて、それが秋になったら抜けてフワフワ飛んでっちゃって、また生えてくるみたいな。。。
(梅雨頃に。


ま。そんな印象です。
(くれぐれも人間の話です。


2010初のひさしブログ。スクロール強&ダメだしでのスタートですが、本年も宜しくお願いします。

播磨屋ばしっ!

  • 2007/09/13(木) 07:32:24

土佐のぉ高知のぉ〜はりまやば〜しぃでぇ♪

『なんじゃぁ〜こらっ!!』
(バシッ!


今まで、どれくらいの観光客の方が『はりまや橋』の欄干に、手首が折れる程の突っ込みを入れたことでしょう…。

観光で高知を訪れ、期待に胸を膨らませ『はりまや橋』へ着。

で、目にする光景に心のつぶやき…、
(コレは何ですか〜?


ええ、はりまやバシッ…です。
(思い切り、突っ込んで故郷へ帰って下さい。

そう、コレが有名な…、日本三大ガッカリ名所の一つに数えられた橋…ですが何か?

なんでもっと良く出来ないものかと…、地元民でも行政に不満アリなんですから、県外から観光に来た方は、不満どころか橋自体に殺意を抱くコトでしょう、きっと…多分。



で、『はりまや橋』って、そもそも何なん?Mな坊さんが頭にカンザシをブスブス刺す所?等の疑問を解決すべく!!


の、はりまや講座です♪

天正年代(1573〜1591)に長宗我部元親の讃岐(香川県)出兵の折、兵糧を調達した功から土佐に招かれて、浦戸城下に居住したのが播磨屋さんです。
(姓は高島さん。

この播磨屋(はりまや)は江戸時代には豪商へと成長、堀川向かいの同じ豪商である柩屋(ひつや)本店への往来の為にと架けられた私設の橋が『播磨屋橋』です。

その櫃屋さんも、天正年代に紀州(和歌山県)から戦乱を逃れて土佐に入国、同じく浦戸城下に住み着きました。
播磨屋宗徳さんや櫃屋道清さんは当時、商人として長宗我部家に仕えていましたが、山内一豊の入国後、城下町の建設に伴い両家とも今の橋近くに引越しました♪
(高知では有名な豪商ですが、両者とも県外人だったんです。

播磨屋と櫃屋は以後、町づくりにも大変貢献したらしく、町年寄役を務めるまでになっています。
で、慶長十一年(1606)には…なんと、町役人の仕事に専念させるため、藩庁から商業経営を禁止される程に…。
(すげ〜。


江戸時代、土佐の町ではかなりの権力&人徳があったんでしょうね。

ガッカリ名所の播磨屋橋…、一番がっかりしてんのは、この二人かも…。

ポチと♪】

誕生日。

  • 2007/08/13(月) 12:55:56

【終戦記念日】が誕生日。

僕じゃなく、兄貴の誕生日です。

兄貴は見事、8月15日に生まれました。

で、僕は→9月6日に生まれてしまいました…、



すいません。(太宰風♪

兄貴が終戦記念日で、平和の象徴の鳩の様な誕生日。(クルック〜。
で、僕の誕生日は数字で分けると『9⇒長崎 6⇒広島』原子爆弾が投下された日です。

コジツケかも知れませんが、兄を戦争で無くした婆ちゃんから戦争の話を沢山聞いて、兄貴とそんな話をした記憶があります。

最近、小学校の時に図書室等で読んだ記憶のある『はだしのゲン』が放送されていました。
二夜連続で、よさこい祭りとカブッテたんですが、時間には帰宅して泣きそうになりながら見てました。

戦争について人より意識してるのは、兄貴の誕生日でも無く、はだしのゲンでも無く、爺ちゃん婆ちゃんが戦争体験者の年代だったからでしょう。

高知大空襲の話、軍人の話、戦時教育の話、物の無い生活の話、いっぱい人が死んだ…話。

沢山のコトを話してくれた分、自分の心に今でも平和の大切さ(幸せ)を記憶してます。

昭和20年7月4日午前2時頃、高知市は50機をこえるアメリカ爆撃機B29の攻撃をうけました。

『高知大空襲』は、高知市街を焼け野原にし、わずかに残る家も焼き尽くそうとするかのような、しつような空襲だったといいます。
焼夷(しょうい)弾は、サァァァッという音を鳴らしながら落ち、ダンダンダンッ音をたて、中に入っている油脂を撒き散らします。

炎の中、逃げ惑う人達は鏡川等に身を投じ、高知市史には、死者401人、負傷者289人、行方不明22人と記載されており、多数の命が高知の街で犠牲となりました。

僕の家も元々、高知市上町にあったんですが、何もかも戦争火災で焼けてしまい親戚を頼り、旭地区へ引っ越しました。

旭町から東の方を眺めると、何も残らない焼け野原が見えたと言ってました。

空襲後の鏡川、川岸にはバラック(ホッタテ小屋)が並び、多くの人々が不自由な生活を送っていたと…。


あまりにも悲惨な原子爆弾、でも、沖縄でも、戦地でも、高知でも…、沢山の人(命)が戦争の犠牲になりました。

大切な人(家族・友人)を失った気持ちは、耐え難いものだったでしょう。


婆ちゃんの兄は前線で亡くなり、遺骨も帰って着てなく、仏壇に高位な戒名の位牌と、勲章だけです。



戦争は、やっぱ…、嫌いです。

侍と友人。

  • 2007/08/11(土) 08:52:23

高知県安芸市にある【土居廊中】←どいかちゅう。

知ってます?

友人の先祖調査で、何年か前に来たことはあったんですが、友人価格の経費(ガソ代&時間)で動いた為、歴史探索(町並み)を堪能する暇も無しでした。


で、先日ゆっくり?と、廊中を歩いて来ました♪

戦国時代、長宗我部氏に敗れるまでは安芸国虎の居城の下であり、時は変わり江戸時代に入ると、遠州掛川山内氏の入国に伴い後、家臣(家老)の五藤氏が治めていた町でした。

土居廊中は五藤氏が安芸に入り後、家臣の役分に応じた屋敷が成立したみたいです。
藩政時代は武家以外の者の立入りは禁じられ、明治以降も暫らくは廊中に入る一般ぴーぽーは、ホオカムリ&ハチマキは取り入廊中(町)したと言います。


松がイイ感じで、石垣と掘りが残る安芸城跡…。




おお!堀だ!!
(堀ヲタ?いいえ、鯉ヲタ…です。




で、それを囲むように藩政時代の雰囲気を伝える家並みが続いています。



なんかトトロっぽい…気が。


武家屋敷=漆喰塗り&土塀が一般的なイメージですが、ここでは【土用竹】という細い竹を生垣に利用しています。
(細い竹は弓の矢にもなり、急な戦でも矢の補充が可能だからだそうで…。


この辺り、てくてく歩いていると、一般に公開(無料)している武家屋敷跡もあり、当時を偲ばせる建築技術(間取り)なんか見れて…少し得した気分♪


で、台所です。(少し改装済?



やっぱ、トトロっぽい…気が。


うろうろと、ほほう♪ほほう♪と、爺臭く堪能していましたが…とにかく高知の夏は…、




バカ暑いです。



で、アイスをゲッツ!



ゆず仕様(使用)です。
(焼きナスバージョンもアリ…。僕はムリ♪

で、冷たくて気持ちイイ〜♪ 蝉の声もイイ〜♪ 木陰の木漏れ日もイイ感じ!!な短い昼休みでした♪(仕事の合間です。

あくまでも、忙しい友人の為に里帰りを代行シテアゲタだけで…、観光とかアイスとかが目的ジャナクテ…、楽しんでたダケデ…。


で、N系遺伝子! 懐かしいと細胞は言ってませんか。(笑



最後のアイスがやたらNっぽい…が何か。


たまには行ってクリック↓



殿、踏んじゃった♪

  • 2007/07/27(金) 20:39:05

皆さん、この暑い夏、いかがお過ごしですか?(聞いてみたダケですが。

僕は先日、新規業務の打合せで高知県安芸市へ行っており、
途中の安芸駅で功名ヶ辻の看板を発見しました!

何故?安芸で功名ヶ辻…スタディ。↓
『山内一豊の家臣、後藤吉兵衛が朝倉攻略などで活躍、1583(天正11)年の伊勢亀山城攻撃の際に討死しましたが、その没後、弟吉蔵が家督を継承して土佐藩の家老となり、現在の安芸市を治めてました。で、後藤さん縁の地♪』という訳です。

山内一豊の功名シーン1↓(駅の看板。


天正元年(1573)8月に一豊が仕える織田家は、越前(石川県)の朝倉義景をボコボコに攻め、そして追撃します。
一豊は羽柴(豊臣)秀吉の軍で必死に戦う中、朝倉軍のしんがりを務める猛将、三段崎勘右衛門の矢を顔面に…ゲット♪ 否、ヒット!!
(矢は左のまなじりより、口中を貫き奥歯に刺さるまでの大惨事…。

顔面に深く矢が…。普通なら馬から落ちて、もだえ苦しむトコですよね…ココ。

が、一豊は、二の矢をつがえる三段崎へ馬を走らせ飛び掛る♪
(ぴよよ〜ん!と顔面矢付の形相で…、飛ぶ矢一豊。


うぶあぁぁ!!! ←(飛んだ…、矢一豊。


飛ぶ…?

普通に…。


怖い。


で、組み合ったまま、横にある谷へ二人は転がり落ちます。
(顔面に矢の刺さった知らない人と…、暗い谷の底へ転がり落ちる…。


それも…。


怖い。



で、運良くマウントポジションの矢一豊の心は功名一色。(首首首…。
 

やはり…。


怖い。



が、首ゲット♪


色んな意味で凄く怖い矢一豊も、顔面に刺さった矢が、やっぱ痛いらしく?
家来の五藤吉兵衛に矢を抜けと、後に指示。

ハイ!と吉兵衛♪ で、コレ↓


殿踏んじゃった♪ 殿踏んじゃった♪ 殿踏んじゃ♪ 踏んじゃ♪


踏んじゃった…。



矢一豊が、子供兵に踏まれている様にも見えますが…。(吉兵衛ちっちゃ。

見事…、抜けました♪
(一豊 → 矢一豊 → 一豊に戻る。

後に、信長も猛将で聞こえた三段崎の首を見て、大層喜んだという…お話でした。


抜いてクリック↓

忘れてた…。

  • 2007/06/28(木) 22:18:09

ナゾナゾシテテ…。

ど〜ん!(本文)↓

そもそも高知のイイとこ、美味い物、歴史、魅力をココから発信する目的が…。

ネタ振りばっかで、肝心の偉人をすっかり忘れていました。

では〜、高知の偉人(異人?)♪

坂本竜馬直陰さんです!!←でたッ!


はい♪皆さんも大河ドラマ&アニメ&図書等で御存知の人物です!
龍馬さんの偉業については、御存知の通り(薩長同盟、大政奉還、船中八策、日本初の株式会社etc)

んで、

ここで高知県民でも、ふ〜ん、と言うと思うよ…坂本家sutady♪

坂本家のルーツは、清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智氏の末裔を称すると云い、姓の由来は本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現滋賀県大津市坂本)に由来すると云う。家紋は【組み合わせ角に桔梗】

坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』は、「先祖坂本太郎五郎生国山城国郡村未だ詳らかならず仕声弓戦之難を避け長岡郡才谷村に来住す。但し年歴妻之里且つ病死之年月等未詳」とあるが、天正16年(1588年)頃は、才谷村の検地で村の3番目の百姓として登録されているだけである。(地検帖)

3代目の太郎左衛門までは、名字を名乗れない百姓身分で、2代目の彦三郎、3代目の太郎左衛門までは才谷村の農民でした。
4代目の守之、5代目の正禎は才谷村内の字「大浜」を家名として名乗り始めます。(大浜さん)
上記3代目の太郎左衛門の次男→八兵衛が高知城下に移り(山→町へ)、質屋を開業(屋号は才谷屋)♪酒屋、呉服等で後に豪商となりました。
享保15年(1730年)頃には、本町筋の年寄役(庄屋の助役)となって、藩主に拝謁を許される程に…。

その後、6代目の直益は郷士の株を買い(譲受郷士)長男の直海を郷士坂本家の初代として名字帯刀♪次男の直清には商家才谷屋を継がせました。
郷士坂本家3代目の直足は、白札郷士の山本家の次男で、養子として坂本家に入ります。その直足の次男が直陰【坂本龍馬】です。

大まかに言えば、『百姓→商家→年寄り→郷士♪』の流れで、かなり順風満帆な家系だったんですね♪龍馬が生まれるまでは…。(HEIHEIbonbon〜

天保6年11月15日に生まれ、慶応3年11月15日に没。短い生涯の中、日本国中を駆け回り、凄く充実した一生だったことでしょう。

なんか最近の高知は、ネタ切れor他力本願(龍馬)チックになって来てるのか…、空港、和菓子、商店、会社、酒etc.etc...凄く龍馬さんだらけです。

世界に誇れる土佐の異人なんで、別にイヤじゃ無いんですが、ココまで龍馬?感が出過ぎてる気…が。(龍馬サンダル・・龍馬が泳いだ川・・?龍馬←貿易会社デモナイ。)

生きていても、亡くなった今でも頼って来る人が居る…。
そんな龍馬が、みんな大好きなんでしょうね♪

〜今日の土佐弁〜
【ちくとみいや】!

<意味>
土佐童話『ちくわと猫』の主人公【チクとミーヤ】では無く、

※正⇒【少し見て】って感じで聞いてます。


※注)管理人の日常フィーリングデータによる。     

船中八策リック↓



無理矢理ネタで…すいっません♪

戦国の土佐

  • 2007/06/15(金) 20:44:57

高知で城と言えば『高知城♪』ですが、元和元年(1615年)、一国一城令を江戸幕府(徳川家の政策)が発令し、廃城となった城跡が高知の色々な土地に残っています。

戦国時代土佐国内には、驚くこと334城の山城が在りました!←凄く多くない?
これらはいずれも土佐の国侍、豪族達の城でありました。

当時三千貫以上の所領を持つ名高い豪族(主な番長)を並べると・・・。(土佐の七守護と呼ばれる者)

【吉良氏】吾川郡 吉良城主
源頼朝の異母弟、介良冠者希義の子孫と伝えられ土佐に入国。

【津野氏】高岡郡 姫野々城主
藤原仲平の子孫といわれ、伊予を経由して土佐へ入国。

【大平氏】高岡郡 蓮池城主
藤原姓を伝えている。

【本山氏】長岡郡 本山城主
本姓は平氏、または八木氏とも言われ、清和源氏とも伝えられるが確証はない。

【山田氏】
香宗我部氏の祖である武田秋通の後見人、中原太郎秋家を祖とする。土佐へ入国。

【長宗我部氏】長岡郡 岡豊城主
系譜では遠祖を秦之始皇帝とし、信濃から土佐へ入国。

【安芸氏】安芸郡 安芸城主
流人となった蘇我赤兄の末裔と伝えられ、土佐へ入国。


上記、豪族達が守護細川氏の下で土佐各地の番を張っていましたが後、室町幕府の衰退で守護細川氏の力は弱くなり後、京都から公家一条氏(土佐国司)が中村に下向してきました。(落〜

官位のむちゃ高い一条氏でも幕府&朝廷の力が弱い時期だったので、地方の豪族達は好き勝手に統治を試みます。(戦上等〜

土佐の豪族達の戦いは、本山氏を中心として本格的な【土佐戦国時代】に突入していきます。(目指せ土佐制覇〜♪)
七守護達は小豪族らを巻き込み領地争いを繰り返し大平氏の滅亡後、さらに豪族達の戦は激化して行きました。

う〜ん、一条氏(中央の偉い人)の力でも土佐がまとまる事は無かったみたいですね。(荒くれ者達…。)
結果、最終的の勝ち組みは長宗我部氏ですが、英雄と呼べるほど綺麗な事はしてないみたいです。(評判悪〜

他にも土佐には沢山の豪族達がいました。(豊永氏・小笠原氏等々)土佐にもこういった歴史は確に残されています。規模(スケール)は違いますが、織田・武田等の戦国大名と同じく必死で上(天下)を目指していたのでしょう…。


時代は変わり目指す物も違いますが、これからも土佐っ子魂で頑張っていきましょう♪


戦国リック↓ 



高知城は凄いじょう…。

  • 2007/06/11(月) 18:08:43

県民の憩いの広場【高知城】♪




高知市内で育った人なら、誰もが一度は登った事がありますよね〜♪
遠足・花見・お城見物等…。(石段が辛い)

江戸時代に一般の民がホイホイ弁当持って入っていこうものなら、下の門で斬捨て御免だったんでしょうけど…。(大人400円払っても…、斬捨〜♪

時は流れて大政奉還〜廃藩置県となり、城自体は明治4年(1871年)に廃城の扱いとなり、どんどん公園化されてイキマシタ。(遠慮無く…。)
結果立ち退き状態になった16代藩主【山内豊範】は家(城)を出て散田邸(現三翠園敷地)に引っ越しました…。(容赦無し…。)


ど〜でしょう実際?今まで恐れ多い敷地からイキナリ公園になっても…。ワーイワーイなんて…出来ますか?
多分当時の人は、暫くしてからじゃないと遊びに行けなかったでしょう〜、明治時代の士族とかの目もあると思うし…。(後で辻斬りされそ〜です♪)

高知城って、= 山内一豊&千代の愛の巣♪
みたいなイメージもありますが、南北朝の頃は大高坂山(現高知城の建つ山)の土地の豪族【大高坂松王丸】の居城でした。しかし、興国元年(1340)に北朝軍に攻められて城と運命を共に落城⇒廃城〜相成り候。。。
またその後、長宗我部元親が天正16年(1588年)岡豊から、この山に城を移したものの辺り一帯湿地のため洪水ばっかで嫌になり、三年程で浦戸に引っ越し〜候。。。

平安時代(1000年前)の高知市はまだ、海にポコポコと頭を出した(中洲)状態でした。浦戸湾も現在より内陸にかなり入り込んでおり、久万川流域なども殆ど入海であったそうです。(海〜中〜
延長8年(930年)〜承平4年(934年)に土佐国の国司であった、紀貫之の【土佐日記】⇒『大津より浦戸をさしてこぎいづ』という文章からも当時の土佐の地形が覗えますね。


何気に高知城見てた方、読んで見ると結構面白いでしょ♪

『高知城は凄いじょう(城)…。』でした。(二回目…)



先祖が【ぜんまい侍】という方はポチと↓


鯨の町

  • 2007/06/09(土) 08:51:00

ど〜ん!鯨の町【室戸】です♪

20070609085100


先日仕事で潮風の中、室戸の市役所と法務局へ行ってきました♪

室戸の市役所までは、高知市内より車で約2時間ちょい…結構走ります。(遠〜
高知の国道⇒『西方面は峠が多いが、東方面は直線ばっか』で同じ長距離走っても室戸行きが疲れません♪

室戸市は高知県南部(太平洋側)で漁業にも歴史のある町です。(海〜
昔、高知の室戸では、捕鯨が盛んに行なわれていました。

生活の糧であった鯨への漁民の心は今でも形として残っています。
キラメッセ室戸の近くには捕鯨時代の【鯨供養の寺】が建ち、毎年夏には古式捕鯨の勢子船を再現した船でレースが行われています。

鯨の半分にも満たない手漕ぎ船で漁民は鯨との死闘を繰り返していました。古くから捕鯨が行われていた土佐では、1591年に四国を平定した【長曽我部元親】が、体長約16メートルの鯨を丸のまま数百人の人夫を使い、大阪城に献上したという記録が残っています。


鯨の恩恵…、食べ物が溢れている今では想像も出来ないものでしょう。

高知は今でも、海では【ホエールウォッチング】酒では【酔鯨】映画も【いさな(鯨)の海】で鯨にお世話になってます♪

一度機会があれば鯨に会える町【高知】へ遊びに来てみたら?

〜今日の土佐歌〜
【云うたち〜いかんちや〜 おらんくの池にゃ潮吹く魚が〜泳ぎよる〜
よさこい  よさこい♪】(よさこい節の一節)

<翻訳>
【言ってもだめですよ、私の家の池では鯨が泳いでいます】…。

※鯨…ありえません…。


※注)管理人の日常経験による。     




一族

  • 2007/06/06(水) 22:10:57

今日は新規業務の打ち合わせと現地説明会に行ってました。

測量をしていると色々な土地に出向き、その土地の色々な話を聞く事が出来ます。

【開拓】という言葉を誰もが耳にした事があると思いますが、僕の年代だと想像するのが【北海道移民】【ブラジルのコーヒー移民】等です。

今日、地元の世話役に聞いた話ですが、高知県室戸市吉良川町の山間部では昭和(戦後)の時代に【開拓】が行われていたそうです。
高知は山が多く平地が他県に比べて少ない為、田舎での生業の大半である農業を行うにはかなりの苦労が付き纏います。

室戸の話に限ったものでは無く、高知のいたる所で先人の努力が垣間見えます。
斜面に石垣を積み上げ農地を手にするには想像出来ない程の苦労があった事でしょう。(棚田が多い)

時代も変わり村から若い力は高知市内・県外等に移り住む事が多くなり、先人によって開かれた農地は元の山へと戻っていきます。

今日の現場もそうでした。

過疎化が進むに連れて、その農地と歴史は風化して行くのでしょう。

今の時代でもよく口にする【一生懸命】という言葉がありますが、語源は一族(分家含)で、自然の状態の土地を切り開き開墾するという【一所懸命】にあります。

時代も変わり自給自足の時代からサラリーの時代に変わりましたが、古老の寂しい口調は田舎の現状と時代の移り変わりを物語っていました。

何かいい政策は無いのでしょうかね?

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